「多様性」について正直思っていることを教えて
LGBT、国籍、人種、宗教、趣味嗜好などなど
ここ最近になり「多様性」という言葉をよく耳にします。
そこで、この「多様性」について良くも悪くも思っている事を打ち明けてみて下さい
ここ最近になり「多様性」という言葉をよく耳にします。
そこで、この「多様性」について良くも悪くも思っている事を打ち明けてみて下さい
逆に普通が良くないみたいな風潮出てきて怖い
「女の子にはピンクじゃなきゃいけない!」がダメなのであって別に女の子がピンクを好むのは全然いいはずなのに、「今は多様性の時代だから女の子にはピンク以外の色!!!」ってなっている人をたまにみかけるので、それは違うなと思う。
多様性を盾に作品や過去を変えないでほしい
近年多様性をアピールしたいがあまり、過去作のリメイクであからさまな有色人種、性的マイノリティの起用(アピールのために使われてない?)が目につくな〜と思います。過去の作品に多様性を出したいがために必要のない設定を入れるのは作品への冒涜だし、過去を変えるだけでは現実から目を逸らしてるだけだと思う。
否定的な意見を認めるのも多様性では?
何かと「多様性を認めよ」の時代だけど、「多様性を拒否する人」にもそれを求めるのなら、それは「多様性を認める」という画一性になるのでは?と思います。
生きやすい世界になってきているのかな?と思う
昔の感覚のオバチャン達は「結婚は?子供は?しなきゃダメよ!同性愛者なの?」とズケズケ突っ込んでくるが最近の若い子は「そんなの人それぞれじゃないですか」と言ってくれるような子が多いと思う。ネットも普及してるからか「多様性」があることを知っている子が多いのかな?それは良いことだと思う。
能力値の低い人間をおいてけぼりにしてしまってる。
LGBTQとか、宗教とか、人種国籍とかそういう目立つものは多様性のとして護ろうとするいっぽう、頭の悪い人、要領の悪いひと、見た目の悪い人、人と関わるのが嫌いな人という、マイナスな個性を切り捨てがちなところがあると思うんだ。
少数派の意見が認められる一方で
多数派や多数派を支持する考えをまるで「差別主義者共」とも言わんばかりに糾弾する少数派が少なからずいること。
多様性の尊重=少数派の意見が絶対正義になるワケではないんですよ
多様性の尊重とは今まで虐げられてきた少数派の恨みを晴らす復讐の文化などでは断じて無いのです
多様性の尊重=少数派の意見が絶対正義になるワケではないんですよ
多様性の尊重とは今まで虐げられてきた少数派の恨みを晴らす復讐の文化などでは断じて無いのです
わりかしどうでもいい~!
同調を押し付けられなければ自分には関係ないので、好きに楽しんでもらって全然かまわない。
寛容こそが必要と言われるけれど、それって「受け入れてあげる優位者」がいること前提に感じて気持ちが悪い。
多様性がもっとも保全される社会性は「相互不可侵」であり、もっといえば「相互無関心」だと考える。
寛容こそが必要と言われるけれど、それって「受け入れてあげる優位者」がいること前提に感じて気持ちが悪い。
多様性がもっとも保全される社会性は「相互不可侵」であり、もっといえば「相互無関心」だと考える。
「多様性」の意味を履き違えてる人が多い
差別を無くして、みんなが過ごしやすいようにしよう!って考えは間違いではないんだけど、それを強要したり反対意見を叩き潰すのは本末転倒なんだよね。考え方の違いも受容して初めて「多様性」なのに、中途半端な正義感を振りかざす人が結構多いと思う。しかも自分の差別意識に全く気づいてないから厄介でしかない。
本当はわざわざいうことじゃない
個々人の考えや思いを尊重するなんて本来は当たり前におこなわれるべき倫理だと思う わざわざそういうお題目を掲げないと何にもできないのがおかしい
皆が受け入れる「社会的に正しい綺麗な多様性」と、そうでない多様性がある。
多様性の大切さを殊更に説く人間ほど、後者に無頓着、あるいは排他的。なんなら「それは多様性ではない」と差別する。
多様性って皆が快適になるためのものじゃなく、皆がお互いの不快な所も受け入れるのが本質なんじゃないですかね。
多様性って皆が快適になるためのものじゃなく、皆がお互いの不快な所も受け入れるのが本質なんじゃないですかね。
「寛容な社会を維持するためには、社会は不寛容に不寛容であらねばならない」(寛容のパラドックス)
寛容は不寛容(例:寛容なんかクソ喰らえ!)を寛容しなければならない、つまり不寛容はいつでも寛容を叩きのめすことができるけど、その逆はない、という…
寛容な社会(≒多様性を内包した社会)の恩恵に預かってる自覚があるので、他者に対してもなるべく寛容でありたい…とは思ってるけど、なかなか難しいよね
寛容な社会(≒多様性を内包した社会)の恩恵に預かってる自覚があるので、他者に対してもなるべく寛容でありたい…とは思ってるけど、なかなか難しいよね
多様性だけ唱えとけば先進的みたいな考えにならないよう気を付けないとなと思う
じゃあその多様性ってなんなの?どうなるのが理想なの?多数派の為に少数派が犠牲になったり少数派の為に多数派が犠牲になったりしてない?とか、そういうのを考えてかないとねってことだと思う
本来「赤も青も紫も認める」のが多様性の筈なのに「全て紫に塗り潰す」事に躍起になる人が多いのが気になる