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そうっぽい人もいればそうっぽくない人もいる
端っこが掠ったベン図みたいになってそう
宗教もお経を読んで極楽浄土みたいなのはアニソン聞いて頑張ってるオタクみたいなもんだし、推し活もファンの間で謎の因習がある場合もある
宗教もお経を読んで極楽浄土みたいなのはアニソン聞いて頑張ってるオタクみたいなもんだし、推し活もファンの間で謎の因習がある場合もある
日本人的な感性ではそうかも
推しについて考えたり、推しにまつわるものにお金を出したり、推しの言葉を指標にしたり生活の中に推しがある感覚は日常に神道や仏教由来の価値観や作法、行事が染み付いている日本的な信仰の形と通じるものがあると思う
ただこれは我々が宗教に対してラフで無頓着な態度だから出てくる発想であって、普通に失礼
ただこれは我々が宗教に対してラフで無頓着な態度だから出てくる発想であって、普通に失礼
ちょっと違う気がする
以前、恐山さんがブログで推すという行為は多少相手を下に見る目線が混じっていると言ってたのが、自分の中でかなりしっくりきてるので。
「かわいい」「〇〇の気持ち分かる」「応援しなきゃ」みたいなのは、崇めてるようで実はちょっと相手を下に見ている気がする。本当に尊敬してる人にはこんなこと言えないから。
「かわいい」「〇〇の気持ち分かる」「応援しなきゃ」みたいなのは、崇めてるようで実はちょっと相手を下に見ている気がする。本当に尊敬してる人にはこんなこと言えないから。
推し活は【自分】→【推し】への「推す」というベクトル
宗教は【自分】←【神】で与えられるというベクトル(与えられると信じるし、与えられるためにすべきことをする)
日本のゆるい宗教感だと似たようなものかもしれないけど、世界的には宗教って選んで推すようなものじゃない絶対的なものだと思うよ
日本のゆるい宗教感だと似たようなものかもしれないけど、世界的には宗教って選んで推すようなものじゃない絶対的なものだと思うよ
微妙に異なると思う
言語化が難しいけど互いの目的が違うものになりそうな感覚がある。
個人的に推しジャンルが宗教化したらちょっと居心地悪くなる感覚があるし。
個人的に推しジャンルが宗教化したらちょっと居心地悪くなる感覚があるし。
推しのためじゃなくて(建前は)自分のために信仰してるから違う気が
違う
信仰によりコミュニティへの帰属意識があり、共同体としての役割もある
推し活は同担拒否などのコミュニティから排他する動きも時折見られる上に、推しの存続のために私財を投入し続けることもあるので一般宗教よりもカルト寄りです
推し活は同担拒否などのコミュニティから排他する動きも時折見られる上に、推しの存続のために私財を投入し続けることもあるので一般宗教よりもカルト寄りです
似てるけど違うところもある
推し活は一代限りだけど、宗教は親から受け継ぐ場合がある。海外はほぼみんな宗教しないといけない同調圧力があって、子は信仰心が薄い・無いのに仕方なく信者を名乗ってることがある
違うっていうか、それをしたらだめだよ〜って言ってる宗教が多め
歎異抄(浄土真宗)で「教えや、それを伝えてくれた先生を私物化(自分好みに享受)したらいかんのよ」って言ってたり、キリスト教もそれに近い動きとしてプロテスタント分化があったり、【自分好みの神様を選ぶ】のは信仰とは呼べないものだと思う。
『既に救われていた』ことに気付いてから、信仰が篤くなるのやも……?
『既に救われていた』ことに気付いてから、信仰が篤くなるのやも……?
違う
共同体のための決まりが多く、そのために生きてるのが集団とかの規模で、生まれてから死ぬまで信仰を変えることは稀
推し活は勝手にやってるだけだし、自分のためすぎる
日本だとあまりそうは思わないかもしれないけど、すごく失礼だし最悪加害されるので絶対現実で言ってはいけない