子どものわりに哲学的なこと考えていたな、という記憶を教えて
石を蹴っていると思ったときには石はすでに蹴られ、遠くに転がっている。石を蹴っているという瞬間だけを味わうにはどうしたらいいのか、と下校中考えてました。
園児のとき、自分以外の人間は目が見えているのかについて考えていました
目が見えてないけど、何らかの方法で知覚して活動してるとか、目以外の器官を使っているのかもとか。
見えてるにしても見え方は違うかもとか。
見えてるにしても見え方は違うかもとか。
自分が赤としている色は他人からしたら青かも知れない
それぞれの見え方が違っても「これは○色だ」という認識は合ってるからだれも気付けない...というところまで考えてた
色が、どんな人にとっても同じ色に見えているとは限らないこと
色覚異常とかの話ではなく。
例えば、自分にとっての「青」が、他人には「(自分にとっての)赤」に見えていて、それを「青」と 呼んでいた場合でも、「空が青いね」って会話が成立する……みたいなことです。
説明が難しい。
例えば、自分にとっての「青」が、他人には「(自分にとっての)赤」に見えていて、それを「青」と 呼んでいた場合でも、「空が青いね」って会話が成立する……みたいなことです。
説明が難しい。
子供の人権について
哲学的とはちょっと違うけど、子供にも人権があるはずなのに学校の先生ってめちゃくちゃ子供の人権無視するな〜……と思ってました。未だに思ってますが……
丸椅子も座椅子も粘土みたいな椅子も全部椅子だと分かるのはなんで?
アート展で椅子として展示されていたオブジェを見て、なんで私はこんな変な粘土みたいなものを椅子だとわかったんだろうなあ〜と思った記憶
イデア論習った時にああ〜!これこれ!と思った
イデア論習った時にああ〜!これこれ!と思った
そういえばプールに飛び込む瞬間って記憶ないなぁと
競泳で飛び込みの練習とかするわけですけど、頭から入っていくとき、入水する直前に水面を視界で捉えてるはずなのに何回やっても水面を見たっていう感覚がなかった。
もしかして: スタンド攻撃
もしかして: スタンド攻撃
なぜみんな明日が来ると思ってるんだろう?
昨日も今日も明日も大きく変わらず、昼が来て夜が来る。明日夜が来ないかもしれないし、隕石が落ちてくるかもしれないのに、なんで能天気に時間割や学校の年間予定を組めるんだろうか?
自分には確かに自我があるけど、他の人もそうかは分からない
他人に自我があるかどうか証明することはできないから、自我があるのは世界に自分だけかもしれないなとか考えてました
リアルタイムで動いている自分を他人の目から見るとどういう風に見えるんだろう
でも他人の目から見ることができたとしてその時自分の意識はその人の体にあるから元の体は自分だと認識できないんじゃないか?じゃあ意味ないじゃんと思ってそこでお手上げになった
どうして自分の体を通してしか世界を認識できないのか考えていた。