子どものわりに哲学的なこと考えていたな、という記憶を教えて
石を蹴っていると思ったときには石はすでに蹴られ、遠くに転がっている。石を蹴っているという瞬間だけを味わうにはどうしたらいいのか、と下校中考えてました。
物は完全に消滅しない
例えば本を燃やして灰になってもこの世界から本の存在が消えたんじゃなくて、灰とかに形を変えただけで全く有が無になることはないし、世界に存在するものは有限で無から何かが生まれるわけじゃないんだなとか思っていた
ぼっちでわりと哲学的なことは考えてたけどそのうちのひとつでした
ぼっちでわりと哲学的なことは考えてたけどそのうちのひとつでした
自分の発する言語と相手が聞き取っている言語は実は全く違う言語なのでは…?
自分は日本語を話してるつもりだけど、相手は自分の想像もつかない言語で聞き取っていて、想像もつかない言語で返された言葉を私は日本語として聞き取っているのでは…大いなる力によりリアルタイム翻訳されてる事に誰も気づいていないだけで…
小学生のころ母親に「わたし日本語で話してる〜?」と聞いて困惑させた思い出
小学生のころ母親に「わたし日本語で話してる〜?」と聞いて困惑させた思い出
今はいずれ過去になる
漫画の新刊を買った帰り道、この本も段々黄ばんでいって「昔の漫画」ってカテゴライズされちゃうんだな〜と虚しくなり、なら「今」って何処にあるんだろう?と考えて頭がパンクしそうになった
この世の怖い話や怖い画像を全て見れば怖いものがなくなるのでは?
「恐怖」という概念に恋をしていた私は、恐怖を恐怖として感じること自体に酔いしれていたし、いつかそれを完全に克服したいと思っていた
小~高くらいまででネット上のホラー画像は網羅しました
小~高くらいまででネット上のホラー画像は網羅しました
自分には確かに自我があるけど、他の人もそうかは分からない
他人に自我があるかどうか証明することはできないから、自我があるのは世界に自分だけかもしれないなとか考えてました
丸椅子も座椅子も粘土みたいな椅子も全部椅子だと分かるのはなんで?
アート展で椅子として展示されていたオブジェを見て、なんで私はこんな変な粘土みたいなものを椅子だとわかったんだろうなあ〜と思った記憶
イデア論習った時にああ〜!これこれ!と思った
イデア論習った時にああ〜!これこれ!と思った
魂=集合なのではないか。
脳細胞一つ一つの意識を感じられないこと、脳細胞が入れ替わるという話、集団が多数決を採る様子から、「魂と呼んでいるものの正体は同質のものの集まりで、なにかが集合するとき、そこに魂は生まれるってことなんじゃないか」と考えたりしてました。
今この瞬間に会話してる相手も、ゼロ距離で会話してるわけじゃないから過去
音とか光とか、なんでも伝わるのにタイムラグがあるってことは、今目に見えてる友達の姿もほんのちょっと過去ってことになるんじゃないか?と考えてた
あの高速道路を走る車それぞれに人が乗っていて、帰る家があり、生活があり、人生があるということ
私の脳が心を無視したらどうしよう
電車を待っている時に、脳が身体に線路に落ちろって命令して自分の意思に反して落ちちゃったらどうしようと考えてた。そして実際に落ちたらそれは私の意思に反していても、私の身体を私(脳)が動かしたんだから傍目には意思に従ったことになるんだろうな…とか。今も電車待ちのとき時々考えてしまう
今ここで感じている世界全てが嘘で、何かしらによって見せられてる夢じゃないかという事
後々知った「水槽の脳」とほぼ同じで衝撃を受けた記憶があります
今は仮に夢であろうと楽しければ良いと折り合いをつけました
今は仮に夢であろうと楽しければ良いと折り合いをつけました
今自分がこのことを考えているということを考えていて、それを考えているということを考えていて…