"善い"とは?
「(道徳的に)善い人であろうとする試み」と、「善い人であるかのように振る舞おうとする試み」とがどのように違うのか、考えあぐねています。皆さんのお知恵を貸して下さい。
自分の「善」を他人の相応しいと思う「善」でなくてもいいと思って振舞うこと
「善い人であるかのように見える行い」はあくまで他人からの評価が前提ではないでしょうか。善い人であることはそういった他者からの評価を気にせずにした行いだと思います。
前者は「善」について考え続けること、後者は「善」の典型や思い込みにただ従うこと
「善」について深く考え続けることを「道徳的に善い人であろうとする試み」と言うのではないかと思いました
到達地点が違うのでは
後者は「いい人だね」とか「素晴らしい人だ」とか言って貰い、"善い人"と認識されるのが目的だが前者は"善い人"と認識されるのは通過点であり"善い人とはこういう人だ"=善い人のモデルと認識されるのが目的のように思えます
自身の心に基づく行動か、他人の評価に基づく行動か
の違いでしょうか。前者は自分の信念に基づく善行であって、行動のみでは他人に伝わらないこと、納得されないこともあるのでは。後者は心中で真逆の思いを持っていても行動が善い人に見えればいい訳で、状況によって基準が変化するため信念は伴わず、返ってきた結果・評価が想像と違った時に責任を転嫁すると思われます。
前者は心を善くしようとしている。後者は心の動きにかかわらず行動を善くしようとしている
と私は解釈しました。上の文を読んだだけでの判断ですが…
「嫌なやつだと思われたくないから」という理由で他人に優しくし、「優しいね」と言われたときの私は後者です。でも、めんどくささとかを感じるのが人間の自然の姿なら、むしろ行動を変えるだけにしておくほうがいいような気もします。
「嫌なやつだと思われたくないから」という理由で他人に優しくし、「優しいね」と言われたときの私は後者です。でも、めんどくささとかを感じるのが人間の自然の姿なら、むしろ行動を変えるだけにしておくほうがいいような気もします。
やらない善よりやる偽善
きっと「善くあろうという試みを実行に移すこと」が重要なんじゃないかな。