この世に生命を宿された人間が"無"の存在を議論するのは無理がある。
「この世に生命を宿すかどうか」の議論は生命を宿される側の主張や言い分が一切存在しないし出来ないので、そのような状況でこの世に存在する人間が現時点で対立が出来ない"無"の存在をテーマにしてあーだこーだ言うのは無理があるし、するべきではない。
自己満足を嘲笑して楽しいの?
そうだよ自分が生きた証を残したくて子どもが欲しいのも、自分が子ども時代にして貰って嬉しかったことを私がしてあげる番になりたいのも、もちろん自己満足です。
でも生きてる間に自分がしたいことって結局全部自己満足じゃん?自己満足って生きる原動力だと思うんだよね。それ否定されて生きるの、奴隷みたいじゃん
でも生きてる間に自分がしたいことって結局全部自己満足じゃん?自己満足って生きる原動力だと思うんだよね。それ否定されて生きるの、奴隷みたいじゃん
べネターの反出生主義の論に立つと
要約して快楽が多くて苦痛の総量が少ない方がよいとなるけど、どうやって苦痛の総量を測るのか、なぜ人間が生まれることで苦痛の総量が増えると言えるのか謎。それなら快楽の量も測って比べる必要があると思います。
これが論として成り立ってるかはちゃんと反出生主義を学んでないのでわからないですが。
これが論として成り立ってるかはちゃんと反出生主義を学んでないのでわからないですが。
反対意見は肯定意見がないと成立しない
そもそも生殖をしてる様々な動植物は「生殖に肯定的」ではないはず。
人間も原始人とかイメージすると多分そうで、特に意見とかないまま勝手に生殖が続いてる。自然現象と同じ。
雨に対して「もっと場所を選んで降ってくれれば便利」って主張しても「それはそう」なだけで何の意味もなさない。
人間も原始人とかイメージすると多分そうで、特に意見とかないまま勝手に生殖が続いてる。自然現象と同じ。
雨に対して「もっと場所を選んで降ってくれれば便利」って主張しても「それはそう」なだけで何の意味もなさない。
人類が合意のもとに自発的に生殖をやめて、絶滅するという目的は達成不可能
これこそ机上の空論、絵空事だと思う。
それなら少しでもこの世を平和にしていくことのほうがまだ可能。少なくとも大多数の人間はそれを目指しているわけだし(少数の悪もいるが、少数の悪のために自滅を選ぶことは無いと思うし、そもそも悪と反出生合意はそれこそ取れない)
それなら少しでもこの世を平和にしていくことのほうがまだ可能。少なくとも大多数の人間はそれを目指しているわけだし(少数の悪もいるが、少数の悪のために自滅を選ぶことは無いと思うし、そもそも悪と反出生合意はそれこそ取れない)
根底にある価値観を自分で否定するしかないと思う