為になっているかなっていないかの判定を第三者がするのが、まず傲慢なのではないかと思う。
一も二もなく我々の認める「幸せ」に向かって走り出せという叫び声。
そういったものから自由になった世代が悟り世代なのだとすれば、それも一つの幸福の形であると、上の世代が「悟る」番なのではないかと。