この質問への回答はすべて匿名投稿になります。
2023-10-16 23:30:29
匿名さん
の質問
非公開
【質問者も肉を食べる】肉を食べる人、「感謝して食べるべき」をどう捉えているかを教えて
インターネットにおける過激派ヴィーガン活動家に対する常套句としての「動物の命に感謝して食べるべき」、皆さんはどう捉えていますか?質問者は感謝しようとしなかろうと飼料の分や痛覚のある生き物を食べる分罪はあるが感謝はそれに向き合う方法の一種であると考えています。
それこそ「いただきます」の文化そのものなのでは?
動植物問わず食にありつけることへの感謝を表す言葉の「いただきます」「ごちそうさま」があるのだから、それ以上の物を求められてもだな……
生き物を殺して食べてる自覚は持って向き合うべきだけど感謝はいらない
自分が食肉用に育てられる生き物だとして、「食べ物になってくれてありがとう✨」みたいに感謝されてたら「殺して食っといて罪悪感まで減らそうとすんなや」とムカつくので
食産業に関わる人に感謝するのはわかる
食産業に関わる人に感謝するのはわかる
日本人の宗教観としては感謝はするが、それは動物に限った話ではない
米粒一つにも神様がいる的なやつで、植物にも感謝する。感情の有無や痛みの有無で生物を仕分けしている時点で驕りすぎだし、たかが一個人の共感性に過ぎない証明でもあるのでどうしてそれを人間に対して共感できんのかと。生きる為に食べなきゃいかんから殺して良いものを選定するのもエゴすぎる。絶食して仏になるならあり
的外れ
自分も肉を食べるけど、普通は元の動物に思いを馳せないし、生前をリアルに想像して感謝しながら食べてる人はちょっと変わってると思う。
信仰や道徳として感謝するべきと主張するのは分かるけど、ヴィーガニズムへの反論としてそれを言う場合、「自分だったら感謝して食べられたら嬉しい」と思ってなければ噛み合わない。
信仰や道徳として感謝するべきと主張するのは分かるけど、ヴィーガニズムへの反論としてそれを言う場合、「自分だったら感謝して食べられたら嬉しい」と思ってなければ噛み合わない。
「苦しんだと理解して食べる」という意味では同意する
殺生を罪とするならジャイナ教徒(肉食はもとより土を耕し虫を殺す根菜は禁止、空気中の微生物に配慮してマスクをし、最後は断食をして餓死するのが理想)が正しい姿だと思うので、痛覚のあるなしで選別をして自己正当化するのではなく、すべての被食者が相応に苦しんだと覚悟して食べることには意味があると思います。
自分たちが全人類の何パーセントなのか
感謝とは「決して当たり前では
ない事を認識する」気持ちだと思う。自然界では肉にありつく為には狩りをするか、既に狩られた生き物の死体を漁らなければならない。人間に食べられる為にその有様を変えられ、食べやすいように加工されて食卓に届く動物たちの事を考えれば、当たり前では無い事は子供でも分かる。
ない事を認識する」気持ちだと思う。自然界では肉にありつく為には狩りをするか、既に狩られた生き物の死体を漁らなければならない。人間に食べられる為にその有様を変えられ、食べやすいように加工されて食卓に届く動物たちの事を考えれば、当たり前では無い事は子供でも分かる。
感謝も大切だと思うけど、もっと大切なことがある
残さず食べるとか、特に事情がない限りスーパーでは賞味(消費)期限近いものから取るとかの方が大切だと思う
それができて初めて感謝する段階になる
それができて初めて感謝する段階になる
感謝はしてるけど、それで人間の罪が帳消しとはならない
人間はたまたま食物連鎖の上の方に立てた哺乳類だと思っているので
食物連鎖の上の方にいるから食べる権利はあるし私も食べる
でも人間社会の道徳観としては食べ物への感謝は必要だと思う
食物連鎖の上の方にいるから食べる権利はあるし私も食べる
でも人間社会の道徳観としては食べ物への感謝は必要だと思う
殺生を罪と認識する者は食事等、生の営みから殺生の要素を除外することに尽力すればよい。
とても簡単なことで菜食もそうだが我々知者は知が導く理想に近づける余地がある
であればそうすればよいそれだけの事。
獣に菜食を強いる事はできないが我々知者が代替に導く事はできる
知的であると云う事の本質とはそういう事
愚者は私利しか生じないが知の道は最初から定まっている
であればそうすればよいそれだけの事。
獣に菜食を強いる事はできないが我々知者が代替に導く事はできる
知的であると云う事の本質とはそういう事
愚者は私利しか生じないが知の道は最初から定まっている
いかなる食事も罪じゃないし、感謝しないよりマシだけど…
感謝の対象で言うなら開発・生産・流通・衛生・調理、携わった全ての人もそう。
犠牲になった命で言うなら刈り取られた雑草や駆除された害虫、消毒された病原だってそう。
だから「動物の命に『も』感謝」であってほしい。