戦争を聞いた話を教えて
私たちは知らないから、聞いた話だけでもここに記録しとこ。みんなが書けばそれが記録で後世に残るよ。
父方の祖父は
南方で衛生兵をやっていて、直接の戦闘は経験していないようだったが、戦後半世紀近く経っても悪夢にうなされることがあったという。戦後は自衛隊に入り直し、熱心な自民党員で改憲論者、靖国神社の会員?だったが、太平洋戦争は馬鹿な戦争だったと断言していた。
母方の祖父母は
見合いの席が百貨店のレストランで当時かなりおしゃれだった料理が出たそうだが、それから数年で祖父に赤紙が届いた。当時30代だった祖父は「この年の自分に今更こんなものが来るようでは日本は負け、生きては帰れまい」と思ったという。出頭したところ病気が見つかり家に返され、家族でこっそり喜んだとか。
うちの祖母に聞いたハナシ
まだ幼かった祖母が空襲から逃れるために、その母親(曾祖母)が近くの防空壕にいる人に「なんとかうちの娘だけでも入れてくれませんか?」と聞いて回ってたらしい。
どこもいっぱいだと入れてくれなくて、仕方なく幼く走れない祖母を遠くの地域までおぶって避難したそう。
空襲でその防空壕は結局やられてしまったとか。
どこもいっぱいだと入れてくれなくて、仕方なく幼く走れない祖母を遠くの地域までおぶって避難したそう。
空襲でその防空壕は結局やられてしまったとか。
父方の祖父
特攻隊として来週飛び立つぞ、と言われた次の日に玉音放送で終戦になった(玉音放送前日には流石に軍部で終戦が決まってただろうから祖父のイキリの可能性あり)
終戦後、故郷である広島で爆心地の街の復興作業をしたため、被曝者に。
特に病気とかは出なく老衰だったので、被曝者手当が結構もらえていたらしい。
終戦後、故郷である広島で爆心地の街の復興作業をしたため、被曝者に。
特に病気とかは出なく老衰だったので、被曝者手当が結構もらえていたらしい。
父方の祖母は
空襲で2回も家を焼かれ、父親の実家に移ることになった。学生時代には2.26事件を横目に見たこともあった。苦労したらしくお金には執着があったという。空襲を思い出すというので、Xmasケーキのサンタのロウソクに火を着けることを嫌がっていた。
母方の曾祖母の2人の兄のお話。
兄は搭乗していた軍艦が魚雷で轟沈したけれども、漂流中に漁船に救助されて生還。
弟は特攻隊として飛び立つ直前に終戦して生還し、奇跡的に二人とも無事で家へ帰れたのだとか。
弟は特攻隊として飛び立つ直前に終戦して生還し、奇跡的に二人とも無事で家へ帰れたのだとか。
被爆したおばあちゃんの話
地元のおばあちゃんから聞いた話。
広島の近くで姉妹で被爆した。おばあちゃんは大丈夫だったけどお姉さんは被害がひどくて、生きながら体が腐ってウジ虫が湧いたらしい。
被爆者への差別もひどく、お姉さんは電車に飛び込んで自殺した。
バラバラになった遺体にはウジ虫が混ざってたってさ。
広島の近くで姉妹で被爆した。おばあちゃんは大丈夫だったけどお姉さんは被害がひどくて、生きながら体が腐ってウジ虫が湧いたらしい。
被爆者への差別もひどく、お姉さんは電車に飛び込んで自殺した。
バラバラになった遺体にはウジ虫が混ざってたってさ。
祖父の話
昭和20年8月6日、広島湾のとある島にいたら、内陸部から凄まじい光、そして自分がいた建物の窓ガラスが全部割れたそう。
そして帰ってきた祖父は、欠けた茶碗と食べ物に髪の毛が入っているのがトラウマになっていた…らしい
そして帰ってきた祖父は、欠けた茶碗と食べ物に髪の毛が入っているのがトラウマになっていた…らしい
ひめゆり学徒隊
学校の授業で来て頂いたひめゆり学徒隊の方の話。負傷者の看護が仕事だけど道具が充分でないので間に合わず、負傷者の傷口にはウジがたくさん湧いた。学徒隊の人たちがそれを一匹一匹摘んで取っていた。
うちの祖母に聞いたハナシ
まだ幼かった祖母が空襲から逃れるために、その母親(曾祖母)が近くの防空壕にいる人に「なんとかうちの娘だけでも入れてくれませんか?」と聞いて回ってたらしい。
どこもいっぱいだと入れてくれなくて、仕方なく幼く走れない祖母を遠くの地域までおぶって避難したそう。
空襲でその防空壕は結局やられてしまったとか。
どこもいっぱいだと入れてくれなくて、仕方なく幼く走れない祖母を遠くの地域までおぶって避難したそう。
空襲でその防空壕は結局やられてしまったとか。
人の死に際は時間が止まって見える